「ひと」Cheer!! 〜 「食の都庄内」を舞台に輝く人からあなたに〜
<Cheer !!〜「食の都庄内」を舞台に輝く人からあなたに〜>
vol.10 –株式会社 米シスト庄内 佐藤優人さん
「食の都庄内」を支える若手料理人やスタッフ、生産者たちの人となりや想いを掘り下げ、庄内の“食”に関わる仕事の魅力をお伝えするシリーズ、<Cheer !!(チアー)〜「食の都庄内」を舞台に輝く人からあなたに〜>。
第10弾である今回お話を伺うのは、米の生産・加工・販売を行う農業生産法人・米シスト庄内 専務取締役の佐藤優人さんです。
佐藤さんは2011年4月に東京から庄内町にUターンして新規就農。以降、米の生産をはじめ、米粉を活用した加工品のプロデュース、田んぼのオーナー制度「MY PADDY YAMAGATA」や水稲に特化した栽培管理アプリ「Rice Log」の企画を手がけるなど、次々と新しい取り組みに挑戦し続けています。
今回はそんな佐藤さんに、お米づくりをはじめとした様々な事業やそれを実施するに至った想いについてお話を伺いました。
※2023年7月に取材した内容となります。
第10弾である今回お話を伺うのは、米の生産・加工・販売を行う農業生産法人・米シスト庄内 専務取締役の佐藤優人さんです。
佐藤さんは2011年4月に東京から庄内町にUターンして新規就農。以降、米の生産をはじめ、米粉を活用した加工品のプロデュース、田んぼのオーナー制度「MY PADDY YAMAGATA」や水稲に特化した栽培管理アプリ「Rice Log」の企画を手がけるなど、次々と新しい取り組みに挑戦し続けています。
今回はそんな佐藤さんに、お米づくりをはじめとした様々な事業やそれを実施するに至った想いについてお話を伺いました。
※2023年7月に取材した内容となります。
◇突然の難病と“普通”からこぼれ落ちる感覚
平成6年、米シスト庄内創業当初の写真。トラクターに乗っている少年が佐藤さん。
1988年、旧余目町(現庄内町)生まれ。佐藤さんは、9代続く米農家の一人っ子として育った。ただし、昔から農家の仕事の手伝いをすることはあったが、特に米農家になりたいという思いはなかったし、親からもプレッシャーを感じたことはなかったという。
中学校時代は陸上部に所属し、三種競技A(100m走、砲丸投げ、走高跳び)で県大会第2位に入賞する実力を発揮。その後県立鶴岡南高校に進学し、引き続き陸上部に所属。部活動に明け暮れる日々を送っていた。
そんな佐藤さんの人生を大きく左右したのは、高校1年生の10月。部活動の際に負傷したことがきっかけで「平山病(ひらやまびょう)」と呼ばれる10代半ば~20代前半にかけて徐々に手指の力が弱くなる難病を患ったのだ。佐藤さんの場合利き腕であった右手に症状が出てしまい、日常生活にも大きく支障が出ることに。当然、生活の中心にあった部活動を継続することもできなくなった。
これまで運動にも勉強にも励み、傍から見れば順風満帆に見える人生を歩んできた佐藤さんだったが、この出来事がきっかけで自分が培ってきたものが徐々に崩れ落ちていくような感覚を抱く。そして、自身が「障害者手帳」を取得することになったことで、今まで気づいていなかったけれども、いわゆる“普通”の人生からこぼれおちている人が実はたくさんいるのではないかと考えるようになった。
中学校時代は陸上部に所属し、三種競技A(100m走、砲丸投げ、走高跳び)で県大会第2位に入賞する実力を発揮。その後県立鶴岡南高校に進学し、引き続き陸上部に所属。部活動に明け暮れる日々を送っていた。
そんな佐藤さんの人生を大きく左右したのは、高校1年生の10月。部活動の際に負傷したことがきっかけで「平山病(ひらやまびょう)」と呼ばれる10代半ば~20代前半にかけて徐々に手指の力が弱くなる難病を患ったのだ。佐藤さんの場合利き腕であった右手に症状が出てしまい、日常生活にも大きく支障が出ることに。当然、生活の中心にあった部活動を継続することもできなくなった。
これまで運動にも勉強にも励み、傍から見れば順風満帆に見える人生を歩んできた佐藤さんだったが、この出来事がきっかけで自分が培ってきたものが徐々に崩れ落ちていくような感覚を抱く。そして、自身が「障害者手帳」を取得することになったことで、今まで気づいていなかったけれども、いわゆる“普通”の人生からこぼれおちている人が実はたくさんいるのではないかと考えるようになった。
◇様々な人とのつながりが出来た東京生活
病気を発症して以降、注力する先を部活動から勉強や生徒会活動へシフトした佐藤さん。元々庄内から外に出たいという気持ちがあったこともあり、高校卒業後は東京の早稲田大学へと進学する。
東京での生活は、想像していたとおり面白いものだった。見たかった映画やライブもすぐに見に行ける。所属した大学のサークルでは様々な芸能人を招いてのトークライブ等を企画。活動を通して映像制作やデザインなどのスキルも身に付けはじめた。
また、大学時代は旅にもよく出かけた。青春18きっぷを買って、パソコンとスマホを片手に電車に乗った。メインの目的は食で、その土地で何が食べられているかを調べたり、様々なチェーン店が発祥した“1号店”を巡ったりしていた。
このように東京暮らしを満喫していた佐藤さんだが、サークル活動でできたつながりが起点になってイベントの手伝いやデザインなどを仕事として依頼されるようになってきたこともあり、このまま大学を卒業して企業に就職するというような未来に違和感を抱くように。2010年3月、3年生の時に大学を退学した。
退学後しばらくの間は引き続き東京で依頼された仕事をしたり、アルバイトをしたりしながら過ごしていた佐藤さん。たまたまテレビでニュース番組を見ていると、父で米シスト庄内の創業社長である佐藤彰一さんの特集が放送されていたのだ。その頃同社ではオーストラリアへの米の輸出販売を行っており、ゴールドコーストで炊飯器を担いで歩く父の姿が映されていた。そこで初めて、父がどんな仕事をしているのか知ることになる。
そんな矢先、2011年3月に東日本大震災が発生。原発事故の風評被害で米の輸出ができなくなり、父の会社にも大きく影響が出ていた。庄内を離れてからの数年間で、各地の飲食店ともつながりができた。自分も何か会社の力になれるのではと思い、サークルの友人も誘って2011年4月に庄内へとUターンした。
このように東京暮らしを満喫していた佐藤さんだが、サークル活動でできたつながりが起点になってイベントの手伝いやデザインなどを仕事として依頼されるようになってきたこともあり、このまま大学を卒業して企業に就職するというような未来に違和感を抱くように。2010年3月、3年生の時に大学を退学した。
退学後しばらくの間は引き続き東京で依頼された仕事をしたり、アルバイトをしたりしながら過ごしていた佐藤さん。たまたまテレビでニュース番組を見ていると、父で米シスト庄内の創業社長である佐藤彰一さんの特集が放送されていたのだ。その頃同社ではオーストラリアへの米の輸出販売を行っており、ゴールドコーストで炊飯器を担いで歩く父の姿が映されていた。そこで初めて、父がどんな仕事をしているのか知ることになる。
そんな矢先、2011年3月に東日本大震災が発生。原発事故の風評被害で米の輸出ができなくなり、父の会社にも大きく影響が出ていた。庄内を離れてからの数年間で、各地の飲食店ともつながりができた。自分も何か会社の力になれるのではと思い、サークルの友人も誘って2011年4月に庄内へとUターンした。
◇新規就農、そして日本唯一の米粉100%のかりんとうの誕生
Uターンしてからの数か月間は、ちょうど田植えの準備と田植え作業の時期と重なったこともあり、まず毎日言われたことをやるので必死だった。作業が落ち着いた2011年の夏、「来年から輸出米を加工米に転換して、自社で何か商品を作ろう」という話に。秋ごろから、佐藤さんと一緒に帰ってきた友人との2人による米粉かりんとうの商品開発が本格的にスタートした。
今でこそ「6次産業化」という言葉が浸透しているが、当時はまだ一般的には広く知られていない時代。それを後押しする制度や仕組みもできていなかったうえに、2人とも商品企画は素人も同然だった。レシピサイトでかりんとうのレシピを見てまず小麦粉を米粉に置き換えるところからスタートするも、米粉にはグルテンがなく生地の内部に空気の逃げ場がないので揚げると爆発してしまう。米菓を作っている人や6次産業の先駆者など様々な人に、時につてを頼って 、時にSNSなどから直接アタックするなどして、何か良い方法がないかアドバイスをもらった。そしてついに、“爆発せずにかりんとうを作れる条件” を見つけたのだ。
以降は600人ほどに試食とアンケートに協力いただき味を調整。企画開始から約半年後の2012年4月8日に、米菓としては日本で唯一米粉100%のかりんとう「かりんと百米(ひゃくべい)」が誕生した。
今でこそ「6次産業化」という言葉が浸透しているが、当時はまだ一般的には広く知られていない時代。それを後押しする制度や仕組みもできていなかったうえに、2人とも商品企画は素人も同然だった。レシピサイトでかりんとうのレシピを見てまず小麦粉を米粉に置き換えるところからスタートするも、米粉にはグルテンがなく生地の内部に空気の逃げ場がないので揚げると爆発してしまう。米菓を作っている人や6次産業の先駆者など様々な人に、時につてを頼って 、時にSNSなどから直接アタックするなどして、何か良い方法がないかアドバイスをもらった。そしてついに、“爆発せずにかりんとうを作れる条件” を見つけたのだ。
以降は600人ほどに試食とアンケートに協力いただき味を調整。企画開始から約半年後の2012年4月8日に、米菓としては日本で唯一米粉100%のかりんとう「かりんと百米(ひゃくべい)」が誕生した。
出来上がった商品は翌2013年2月には財団法人食品産業センター主催の「優良ふるさと食品中央コンクール」で、全国第2位にあたる「新技術開発部門 農林水産省食料産業局長賞」を受賞。最初は2種類だった味も現在は7種類まで増え、今では人気の庄内土産へと成長した。現在は、OEMで全国のご当地かりんとうの製造も受注しているという。
◇ 米の販売価格を“無料”にするために
現在は専務取締役として、製造・販売に限らず営業統括や広報活動等様々な分野を担う佐藤さん。2019年には、「「自分の田んぼ」で取れたお米が一番美味しい。」というコンセプトのもと、個人でも法人でも、5haから田んぼが持てる面積型の契約栽培サービス「MY PADDY YAMAGATA」をスタート。また、2021年には、自身が新規就農時に先輩がやっていることを見て覚えるしか方法がなく苦労した経験から、ベテラン農家の「感覚」を数値化し、「勘」を定義して後継者に繋ぐことを目指した栽培管理アプリ「Rice Log」を株式会社エス・ジーと共同開発。一般的な農家のイメージを覆すような斬新な取り組みを次々とはじめている。そんな佐藤さんの現在の目標はなんと、”米の販売価格を無料にすること”だという。
「コロナ禍に、町からの依頼で生活保護を受けている家庭に10㎏ずつ米を届けたことがあったんです。私は90軒前後配達に伺ったんですが、一部の方は米をもらったことに半ば土下座のような形でお礼を言ってくださる方もいて。でも、その人の家の目の前には田んぼが広がってるんです。この矛盾は何だろうとすごくモヤモヤしてしまって。会社に帰って貼ってあった食の都庄内のポスターを見てさらに複雑な気分になりました。これでは食の都とは言えない。 食の都だからこそみんな米を食べられるような環境になっていなければだめだと思いました。」
「コロナ禍に、町からの依頼で生活保護を受けている家庭に10㎏ずつ米を届けたことがあったんです。私は90軒前後配達に伺ったんですが、一部の方は米をもらったことに半ば土下座のような形でお礼を言ってくださる方もいて。でも、その人の家の目の前には田んぼが広がってるんです。この矛盾は何だろうとすごくモヤモヤしてしまって。会社に帰って貼ってあった食の都庄内のポスターを見てさらに複雑な気分になりました。これでは食の都とは言えない。 食の都だからこそみんな米を食べられるような環境になっていなければだめだと思いました。」
そこで佐藤さんが、長井市出身で株式会社やまがたアルカディア編集社代表の船山裕紀さんと始めたのが「NUKADOKO LIFE」という取り組みだ。
米ぬかは米を精米する際に出てくるもので、米を売る側からすると極端な話「廃棄物」になる。一方で米ぬかには多くの栄養があり、近年は美容と健康に良いとして再注目されている。
本来、米を精米するときの副産物として出てきた米ぬかに価値をつけ販売することで、逆に精米が米ぬかを製造するための副産物となる。そうなれば、精米自体は無料で配ることができるのではないか。そんな逆転の発想から、米シスト庄内の米ぬかと長井市の天然水といったぬか床づくりに必要な一式をそろえたNUKADOKO LIFEの「山形ぬか床セット」が生まれた。“副産物”である精米は、全量が食糧支援団体へ寄付されている。
まさに、“普通”からこぼれおちたという佐藤さんならではの目のつけどころだ。
「食の現場と農の現場の分断が進んでいるといわれますが、食と農の現場が近いこの地域だからこそできることがあると思う。農家という枠組みにとらわれすぎず、もっと人の行き来があってみんな笑顔でご飯が食べられる。そんな未来につなげていけたら」と佐藤さんは語る。
米ぬかは米を精米する際に出てくるもので、米を売る側からすると極端な話「廃棄物」になる。一方で米ぬかには多くの栄養があり、近年は美容と健康に良いとして再注目されている。
本来、米を精米するときの副産物として出てきた米ぬかに価値をつけ販売することで、逆に精米が米ぬかを製造するための副産物となる。そうなれば、精米自体は無料で配ることができるのではないか。そんな逆転の発想から、米シスト庄内の米ぬかと長井市の天然水といったぬか床づくりに必要な一式をそろえたNUKADOKO LIFEの「山形ぬか床セット」が生まれた。“副産物”である精米は、全量が食糧支援団体へ寄付されている。
まさに、“普通”からこぼれおちたという佐藤さんならではの目のつけどころだ。
「食の現場と農の現場の分断が進んでいるといわれますが、食と農の現場が近いこの地域だからこそできることがあると思う。農家という枠組みにとらわれすぎず、もっと人の行き来があってみんな笑顔でご飯が食べられる。そんな未来につなげていけたら」と佐藤さんは語る。
最後に、食に携わる仕事に興味がある方へのメッセージをお願いすると、佐藤さんはこう答えた。
「生きている延長線上、自分のつながりの先に、うまい農産物があるのが庄内の面白いところ。東京だと野菜の生産現場を見つけるのが難しいくらいですから。隣の人が庭で何を作っているのか聞いてみたり、歩きながらどんなものが作られているのか見てみたりすることが簡単にできる面白さがあります。その一方で、例えばチェーン店やコンビニの商品とかを否定するのではなく、まずは流行りものも量産品も食べてみて、そのうえでその食品の生産と流通の過程を想像していく。いろんな“食産業”の形を知って、そこに関わる人たちをイメージすることで、食を“楽しむ”人がどこよりも多い街になれば、最高だなって思いますね。」
【企業情報】
社名:株式会社米シスト庄内
場所:〒999-8302 山形県東田川郡庄内町久田字 寺前8
電話:0234-42-1181
公式サイト:https://beisist.co.jp/
「生きている延長線上、自分のつながりの先に、うまい農産物があるのが庄内の面白いところ。東京だと野菜の生産現場を見つけるのが難しいくらいですから。隣の人が庭で何を作っているのか聞いてみたり、歩きながらどんなものが作られているのか見てみたりすることが簡単にできる面白さがあります。その一方で、例えばチェーン店やコンビニの商品とかを否定するのではなく、まずは流行りものも量産品も食べてみて、そのうえでその食品の生産と流通の過程を想像していく。いろんな“食産業”の形を知って、そこに関わる人たちをイメージすることで、食を“楽しむ”人がどこよりも多い街になれば、最高だなって思いますね。」
【企業情報】
社名:株式会社米シスト庄内
場所:〒999-8302 山形県東田川郡庄内町久田字 寺前8
電話:0234-42-1181
公式サイト:https://beisist.co.jp/